昨今の断捨離ブームにより、断捨離のテレビ番組まで作られ、断捨離そのものはまだまだ多くの人が必要としているテーマであるようです。
能動的に不要なものを手放す、というのが断捨離ですが、今回は逆パターンもあるのではないか、というお話です。
「手放す」というより「勝手にいなくなる」
見方を変えると、手放すというよりは自分の意思とは関係なく、いつの間にか姿を消してしまった人、そしてどこにいったか思い出せないモノ、それらはあたかも逆断捨離とも呼べるように、こちらから離れていったように感じる、ということです。
確かにここに置いたはずなのにない、とか、ここにしまったはずのものがない、というのは、けっこうよくある話なのではないかと思います。
大半は勘違いで別の場所にしまっていたとか、たまたま誰かに貸してしまっていたとか、そんなささいな理由でひょっこり出てきたりします。
しかし中には探せど探せど居場所がわからないことがあります。
ある日突然SNSから消えてしまっていたとか、LINEのともだちからはずれていた、アドレス帳からいなくなっていたなど、対象が人の場合はそんなところで「あれっ」と気づくものでしょう。
しかしそれは同時にその人との関係が終わった、ということでもあります。
まるで強制終了でもされたかのように。
中にはこれに納得ができず、共通の友人に連絡先をききまくったり、居所をさぐったりと、度をこしたらストーカーよばわりされるのではないか、と心配になるような行動を起こす方がいらっしゃいます。
ささいな口ゲンカなどで勢いにまかせ、関係を終了させてしまおうとすることは確かにあるかもしれません。
しかしそれほど連絡しあっていたわけでもなく、たいして会ってもいない、というレベルの人が突然いなくなったとしても、そこまで探して理由をきく必要はないのではないでしょうか。
ずっと続いている(ように見える)人間関係もあれば、消滅していくものもあるのです。
こうなる運命だった!?
アーティストの藤井風さんは、初ライブの日が大雨になってしまい、終わった後のインタビューで感想をきかれ「(雨だったけど)でも意味のないことなんてない、これが正解じゃから」とおっしゃっていました。
人間関係も同様なのです。
離れていくことにも意味があり、仮に自分から離れていく人がいるなら、その人は「この人から学ぶものは全部受け取った」と判断したのかもしれません。
永遠に続く人間関係の方がむしろレアなのでしょう。
逆断捨離だな、と気づいたとしても、この人から学ぶことは終わったのだ、と考えるようにしてみましょう。
なくなる = 何か悪いことが…
一方、愛用していたものが突然なくなってしまった、リュックにつけていたお守りがちぎれてしまっていた、探せど探せど見つからないと、何か悪いことが起きるのではないか、と心配になる方もおられますね。
しかし業界の方におうかがいしてみると、すべてのモノには波動が存在していて、その波動が合わなくなると離れていくのだ、ということです。
また寿命がきた場合も同様であるそう。
つまり悪いことが起きるどころか、その悪いことを回避するために身代わりになったり、その結果寿命を迎えて姿を消すというのですね。
人間関係だけではなく、モノとのかかわりも永遠に続くことはないのです。
よく「形あるものもないものも、いつかこわれる時がくる」などということもききます。
こわれて変わり果てた姿になるのを見せたくないから、黙って姿を消してしまうのでしょうか?
どんなに大切な愛する人でもいつか別れの時がやってくるように、モノでも同じなのだと考えるとよいかもしれません。
関係性が変わったケースも
人の時と同様、成長などでモノとの関係も変わるのかもしれません。
どんなに大切にしていたぬいぐるみでも、いつか「もう自分には必要ないな」と感じる時がくるのと似ています。
あるいは成長により「モノそのもの」に執着しなくなってきた、というケースもありますね。
本来使ってこそ意味があるはずなのに、どこか奥の方にしまいこんでそのままになっている、というのは、もうそれには執着していないということ。
そうなった場合、ご自身との関係は終焉を迎えていると判断してよいのではないでしょうか?
(こういったものを手放すのが断捨離の醍醐味でもあります)
一方関係が変化しお役御免となった後、寿命を迎えて姿を消すものもあるようです。
いずれにせよ、この変化は運気の変化ともとることができますので、次のステージに入ったというしるしかもしれませんね。
次回はなくなってしまった時、どうするのがよいか考えてまいります。